A.K.
2024年7月21日
《Scripture43 :「このような姦淫と罪の時代にあって、私と私の言葉を恥じるような者なら、…そのような人のことを恥じます。」マルコ8 : 38》
マルコ8 : 38
1) メッセージのサマリー
“世・よ”は、罪を土台として自己中心に振る舞う人々が作り上げている世界であり、私たちキリスト者は常にこの姦淫と罪の時代に生きることになる。神様は、このような時代にあってこそ、“世・よ”の価値基準、行動原理に迎合して自らのアイデンティティーを蔑ろにする(私と私の言葉を恥じる)ことなく、むしろ自分のアイデンティティーを明らかにし、違いを際立たせて地上の人生を歩みなさいとおっしゃっている。つまり、自分は「創造主なる神様だけを支配者とする“神の民”」であることを明確化し、このアイデンティティーに相応しい“世界観・価値基準・行動原理”に基づいたライフ・スタイルを実践して生きてゆくということである。また、このライフ・スタイルを送ることが“世・よ”との違いを際立たせ、“神の民”としてキリスト者に刻まれた『標・しるし』を“世・よ”に示してゆくこととなる。
姦淫=偶像礼拝を含む、持ってはならない不適切な関係を持つこと。
アイデンティティー=存在の確かさ。
恥じる=本来あるべき姿から逸脱した存在と認識すること。
2) インスピレーション&アプリケーション
「固有の自分らしさ」を表現し、周囲との違いを際立たせようとする“標・しるし”としての刺青・タトゥーの例、また名刺の例がとてもわかりやすかった。私たちは外面に何かを刻む必要はなく、そのライフ・スタイルによって、 “神の民”としてのアイデンティティーを示すことができる。そしてこのアイデンティティー<存在の確かさ>は、私たちの存在不安に応える、また存在不安を温かく包む、神様の「皮の衣」なのだ。
3) メッセージから紡ぐフレーズ
いつどこにいて 何をしていても
変わらない私のIDは“神の民”。
存在の確かさが私を自由にする。