
A.K.
2024年4月28日
《Scripture31 :「どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるたに。」マルコ2:9-10》
マルコ2 : 1 - 12
1) メッセージのサマリー
“実体験”を伴わない“信仰”は(律法学者たちのように)“はず・ふり・つもり”の虚構の世界を構築する。これは、教会でも起こり得ることである。そのような者たちは、目の前に展開している「リアリティーの世界」を見ても認めようとはせず、(既得権益を守るために)反対者となってその“神の真実”を打ち壊そうとする。神様は、そのように「神に敵する者たち」を打ち砕かれる。一方で神様は、(中風の人にされたように)私たちが持つ“必要”を満たされ、私たちに“神の真実=リアリティー”を示される。その実体験を土台として、神様を“自分の世界”の支配者として受け入れる者たちは、救われて“永遠のいのち”の中の“地上の人生”という「新しいリアリティー」を生きることができる。
2) インスピレーション&アプリケーション
「どちらがやさしいか」問題に関しては、1)言葉だけで『あなたの罪は赦された』と言う方が「容易である」という理解と、2)イエス・キリストの神性を理解させるためには『起きて、寝床をたたんで歩け』と言って癒す方が「効果的である」という理解が考えられることを学んだ。より大事なのは、必要が満たされるという実体験が、私たちの信仰生活においては不可欠だということである。目にみえる必要が満たされること(ここでは病が癒やされること)と、目に見えないたましいの必要が満たされること(ここでは罪赦されること)。必要の満たしがリアリティーある信仰生活の土台となり、それを諦めずに神様に求め続けても良い、という励ましとなった。また、虚構が実体を攻撃する、という日常生活に陥らないよう、実体験を積み重ねていきたいと思った。
3) メッセージから紡ぐフレーズ
自分の必要を知り、神様に求める。
このシンプルな思いと行動が、
信仰生活の一歩となり土台となる。